消費者意識の目覚め 6

現在ジャズとカテゴライズされて考えられる音楽は、当時はそれほど厳密に定義づけられてはいませんでした。


19世末ごろに大きな展開をみせたブルース、ジャズ、ダンス音楽等は互いに影響し合い、またある個所では完全に重なり合いながら、ショーやコメディを含めて、黒人芸能文化をより豊かにしていきました。


そしてその潮流は1920年代にはジャズ・エイジと呼ばれる全盛期となり、その熱気は大恐慌まで継続するのです。


1920年代といえば、ちょうどラジオやレコードといった新しいメディアが出現した時期でもあります。


ジャズが初めて録音されたのが1917年で、ニューオーリンズの白人楽団のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドだった。しかし20年代になると、黒人の優秀なジャズ・プレイヤーが吹き込む機会も増え始めます。


今日ジャズを改めて歴史的に振り返ってみることができるのも、こうした実体的遺産が残っているからなのです。


ジャズは即興性を重んじる音楽なだけに、レコードは、楽譜や文字的資料ではわかり得ない部分を伝えてくれます。


また、ジャズがのちに芸術的評価を受けるようになるのも、レコードを通してヨーロッパ人の耳に入ったからでしょう。

消費者意識の目覚め 5

1863年、南北戦争は北軍が勝利し、奴隷解放が宣言されました。


それまで農奴だった南部黒人たちは、身分的には自由にはなりましたが、それは同時に餓死する自由でもありました。


切迫した生活苦が新たに待ちうけていたのです。


ブルースはそんな境遇に置かれた時に初めて生じる、内的欲求が歌になったものです。


1890年代になると、さまざまな黒人音楽が開花しはじめます。


ケイク・ウォーク、ストンプ、ラグタイム等のダンス音楽は都市部で行われ、メンフィスやルイビルではジャグ・バンドが活躍しました。


ブルース・プレイヤーは舞踏的にテンポ・アップしたブギ・ウギを演奏しました。


黒人音楽はさらにニューオーリンズ、アトランタ、ダラス、セントルイス、カンザスシティ、インディアナポリスといった都市に拡がっていきました。


この波はやがてニューヨーク、ワシントンDC、シカゴにも伝わっていき、さらにはジャズの拾頭によって新たな展開を迎えることになります。


ジャズが生まれたニューオーリンズは、アメリカの中でも特殊な地域です。


フランスとスペインの支配を受け、多分にコスモポリタン的雰囲気を漂わせています。


とりわけ黒人女性との間に生まれたフランス系混血児のクレオールはユニークな存在でした。


奴隷解放で没落したクレオールのなかからはすぐれたミュージシャンがあらわれ、ジャズ文化がそこから芽生えていきます。


やがて第一次大戦でニューオーリンズが軍港となるとともに、歓楽街として栄えたこの街も火が消えたようになり、ジャズの中心地は工場労働者の需要の増したシカゴに移っていったのです。

消費者意識の目覚め 4

アメリカの場合は、支配層だったWASPたちが、彼らにとって理解不能なアフリカ的文化をことごとく排除させ、自分たちの習慣との同一化を図りました。


その結果、言語、宗教などほとんどの面で、アメリカの黒人たちは過去の伝統と分断されることになったのです。


また彼らの文化的基軸となっている太鼓の使用も、暴動の信号になるという恐れから禁止されました。


アメリカの黒人文化はこのようにいったん断ち切られながらも、身にしみついた習慣や心に残った記憶によって、やがて再構築に向かいます。


たとえば、押しつけで入信させられたキリスト教の賛美歌を歌う際に、声色をわざと濁らせてみたり、節回しを好みに歪めてみたり、曲の進行とともに、ビートをどんどん強めていくといったやり方がそれです。


このような唱法やリズム感覚が、やがてニグロ・スピリチュアルという独自の宗教音楽を生んでいくことになります。


また、能率向上のために歌わされたワーク・ソングは、コール・アンド・レスポンスと呼ばれる伝統を受け継ぐ結果となりました。


1人の音頭取りが短い文句を歌い、集団がそれに呼応するパターンなのですが、前者が即興的にさまざまなバリエーションを並べるのに対し、後者は一定のフレーズを繰り返すのです。


これはソリストのアドリブと楽団のリブというかたちで、カウント・ベイシーら黒人ビッグ・バンドに継承され知られるようになりました。


同時に、キューバ、ブラジルを含めたアフロ・アメリカ文化に共通する様式です。


以上のようにして、彼らは白人支配の及ばぬほんのわずかな間隙を見つけては、伝統の種を植えつけました。


彼らが悪い状況の中で働かせた生活の知恵により、徐々にではありますが、新たなアフロ・アメリカンの文化の芽が育っていったのです。

消費者意識の目覚め 3

大衆文化は、極度の貧困のなか、つまり企業文明の外で極度に差別化された社会のなかで生活する黒人たちによっても、雑草のように根強く創造されつつありました。


そこで社会の最底辺の黒人たちが、アフリカの祖先たちが伝えてきたリズムを呼び起こし、これを新たな形に再生させたポピュラー音楽について、一瞥してみることにします。


ポピュラー音楽は20世紀的現象といえます。


農業の目に見える衰退と、これに伴う急ピッチの工業化は、人びとを都市へ集中させました。


彼らの多くは工場で低賃金で働く、黒人など多種にわたるマイノリティの異民族でした。


彼らはスラムを形成し、それぞれ固有の共同体の中に暮らしていました。


このような企業文明から疎外された社会階層がポピュラー音楽を生み、発展させる母体となったのです。


また他方で、マスメディアの発達や蓄音機やラジオなどの技術進歩がそれに拍車をかけ、独占資本化と大量消費の企業文明の形成の渦中で、ポピュラー音楽は育っていったのです。


実際、19世紀末から20世紀の初頭にかけ、ニューオーリンズではジャズが、アルゼンチンのブエノスアイレスではタンゴが生まれ、ブラジルのリオデジャネイロ、キューバのハバナなど、アメリカ南北大陸各地で同類の都市音楽が次々と産声をあげています。河成鎮一郎氏によると、これらの共通点は、インディオなどの先住民やアフリカから奴隷として送りこまれた黒人と、欧州諸国の植民者との混血文化であることです。


したがって、それぞれの国における支配、統治の方法の違いが、大きく音楽の性質を変えていくことになるのです。

消費者意識の目覚め 2

1933年から34年にかけてベストセラーとなった『人生は40から』(ウォルター・ピトキン著)という本では、現在は「まさにこの瞬間の支配的欲望を首尾よく」達成するときだと書かれています。


ギャング映画の主人公たちは自ら機関銃の乱射の的となって、立身出世物語の終焉を告げました。


コメディー映画のマルクス兄弟のグルーチョは、中産階級の意識や生活態度を鋭く風刺して人気がありました。


1938年にコミック誌に登場したスーパーマンへの人気は、「日常生活の輪郭をますます形づくるようになった制度と官僚主義に対して人ぴとが感じた、落ち着かない気持ちを象徴していたのである」。


一方で『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラの凛々しさに魅了された大衆は、他方ではスーパーマンやターザンに心から拍手を送ります。


大衆文化の二律背反が1930年代の社会的特質であったとすれば、そのような交錯する世界はいったい何だったのでしょう。


ルビーンはこれに対し、次のように答えています。


「・・・その世界とは、それが未来の輪郭づけをしはじめていたときですら、なお過去の方を向いていた世界であった。


また価値観の危機が、同時に経済的危機を伴っていた世界であった。


そして、徐々に累積されていったがゆえに、ほとんど感知できない変化という通常のプロセスが、長引く危機の存在によって助長され、目立つようになったという理由で、歴史家に特別の興味を抱かせる世界であった・・・」。

消費者意識の目覚め

1920年代までのアメリカの経済成長は、長期間にわたっていました。


それだけに、保守性が大衆の間にまで広く浸潤していたのです。


しかし、半面では保守性とともに革新を求める気運が二重写しされていたことも否定できません。


これを大衆文化としてわれわれが受けとめる場合、どのような変化が1930年代に見られたでしょうか。


その顕著なあらわれは、大量消費経済の発展です。


経済学者ロストウも、歴史的にみて1920年代にその条件が出そろったとしています。


フォードがつくり出したモータリゼーションは、その代表でしょう。


社会学者のレオ・ロウエンタールはこのような変化を取り上げた最初の1人だといわれますが、彼は1930年代にアメリカ国民の間に「生産者意識から消費者意識への転換」があったことを指摘しています。


これまで生産のアイドルは勤労でしたが、消費のアイドルとしては余暇が重要視されてきたのです。


また、以前人気のあった伝記も、主人公は実業家や政治家が退場して、べーブ・ルースやチャップリンといった大衆娯楽の人気者がそれに代わりました。


その場合に選択される価値基準は、主人公が「時と場所を得たこと」、「いい人にめぐりあったこと」、「物事を見る目があったこと」、「容姿がすぐれていること」、「肉体的に驚異的なものを持っていること」などでした。

スギナ・・・その2

節には退化した黒い舌状の葉がさや状についています。

したがってスギナは、緑の部分はすべて茎ということになります。

ツクシは、早春に出て胞子を飛ばすと枯れます。

若いときには食用になります。

スギナは、生活力が旺盛でアスファルト舗装をつき破って出ることもあります。

繁殖は胞子や地下茎でどんどん増え畑地ではやっかいな雑草です。

特に酸性土壌を好んで生えます。

スギナの若い葉もたべられるといいます。

そのためスギノ葉のような菜でスギナと言います。

スギナ・・・その1

日の当たる野原や道端や湿った場所に群生します。

冬は枯れ、早春から晩秋にかけてみられます。

地下茎は暗褐色で長く地中をはいます。

地上茎は、早春に出る胞子茎(ツクシと呼ぶ)とこれよりおくれて出る栄養茎とがあります。

胞子茎には枝はなく、褐色で高さ10~25㎝。

先に円い胞子のう穂をつけます。

栄養茎は高さ30~40㎝、緑色で節より多数の枝を出し、下部の枝ではさらに小枝に分かれます。

神奈川県・・・したしまれているイチョウ その2

イチョウの材はやや軟かく、削ると少し異臭がします。

かつて鎌倉彫の材料にイチョウが使われたことがあります。

材は上等のマナ板に使われます。

日本料理、家庭用に使われるほか、中華街で使われる中華料理用のマナ板にこの材をつかいます。

並日通使うのはケヤキだが、上等品はこのイチョウです。

神社に植えてあるイチョウではすぐに割れて使い様がありません。

山の木を使います。

料理人は一目見て使える木かどうか見わ淋けるそうです。

そういえば、もともとイチョウは中国の木です。

神奈川県・・・したしまれているイチョウ その1

神奈川県の県の木です。

第二次大戦後焼け跡で不死鳥のように芽をふいて戦災後の復興となったのがイチョウです。

そういえば東京都、大阪府の木もこのイチョウです。

いずれも戦災をうけたところです。

神奈川県内のイチョウの有名なものとしては、県庁のそば、日本大通りの並木、藤沢遊行寺のオハッキイチョウなどがあります。

成長がよく、ほとんど病虫害にかからないので県内に大きな木が多いです。

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